超エリートと並ぶ!誇れない学歴からの成功メソッド




私には、大学生の時代にアルバイト先で出会った、とても気の合う、そして超絶有能な4人の友人がいます。



彼らは某国立大学に通う、とても個性的で知的な4人でした。



そして、その出会いは、閉鎖的な田舎町で生まれ育った私にとって、衝撃的でした。



なぜならどんな質問をしても、明確な回答が返ってくるその4人。



当時の僕には、なぜこの4人は東大や京大に行かず、こんな田舎町にある国立大学に行っているんだろうと・・・



東大や京大って、このめちゃめちゃ頭の良いと思われる4人でも容易く行けないくらい、そんなにスゴいところなのか・・・いつもそう思っていました。



唯一無二、本気の夢!バンド活動




その中の2人とは、音楽を通じて特に意気投合していました。



彼らは邦楽、洋楽ともに、とても精通していたので、この二人のおかげで、私が中学生の頃から熱望し、夢描いていた音楽活動、当時で言うところのバンド活動を、3ピース(3人構成)で始めることができました。



当時、歌を歌うことしかできなかった私は、楽器の事や、バンドとはどうあるべきか?どうやって活動をしてくのか?と言うようなことを少しづつ教えてもらいながら、でもただ楽しくて、ただ嬉しくて本能だけで参加していました。



そして、いつの日からか、やるからにはもちろんメジャーデビューしよう!と目標を大きく掲げて活動をしていました。



当時はそんな時代だったんですよね。音楽をやるなら、デビューを目指す!みたいな。



大きなトレーラーに機材を積んで、そのトレーラーの一角に部屋を作って、曲を作りながら、全国をライブ行脚して、地位と名誉とビッグマネーを得る!みたいな、まるで、ハリウッド映画のような、アメリカンドリームを地で行くような、なんともワクワクする夢を抱いていました。



今の時代のように、SNSやYouTubeなど、個人の情報を発信するコンテンツがなかったので、オリジナルの曲を作り、何本ものカセットテープにダビングをして、雑誌に載っているオーディションにデモテープを送りまくっていました。



しかし、活動をすればするほど、本格的な楽曲を作りたくなってくるもの。



いくら田舎町といえど、スタジオでレコーディングをするのは、お金がかかり、学生の身分では、活動がもたないのが、当面の悩み。



そんな時、男気のあるドラムのメンバーが一念発起、元美容室をやっていた店舗付きの戸建ての一軒家を借りて、その店舗部分に、楽器の機材を持ち込み、壁には遮音シートと言う、音が外に漏れないようにするシート張り、木材を買ってきて扉を作って本宅との仕切りを作って、手作りの音楽スタジオをつくったのです。



それで、いつでもレコーディングや、練習が出来るようになり、スタジオ問題は解消されました。



全くもって、若さとは勢いがあるものです。



スタジオができたことで、昼間でも、夜中でも、練習やレコーディングをすることができ、オリジナル曲はどんどん形になっていきました。



そんな活動を1~2年続けていたある日、そのスタジオの家主であるドラムのメンバーが、実家の家業を継ぐために、突然地元に帰ってしまいました。



その時点で、スタジオも閉鎖、リズム隊のドラムもいなくなり、バンド活動が行き詰まりました。



それでも、残されたメンバーと二人で曲を作り、レコーディングをし、デモテープをオーディションに送りまくっていましたが、その最後のメンバーも就職が決まり、関東に行くことが決まりました。



そんなバラバラの状態でも、夢諦めきれず、お互いに8トラックの、当時最先端だったMDのデジタルミキサーをそれぞれ購入し、パートごとにそれぞれの居住地で録音して、しぶとくデータのやり取り、音楽活動を継続していましたが、30歳を迎えた時、潮時だ・・・と言うことで、音楽活動は終焉を迎えました。



私にとっては、人生を賭けた夢であり、ミュージシャンになることしか考えていなかったので、丸太が心に貫通したような、大きすぎる風穴がドカンと空いてしまいました。



それから少し時間が経過したある日、約10年のバンド活動にやり切った感もあり、その頃は家族もいたので、まっとうな仕事につかなくてはと言う思いになって、そこからの人生の展望を、前向きに日夜考えて行くようになりました。




夢破れた後。




大学生の時、こんな父親になろう、音楽で身をたれられなかったら、こんな生き方をしよう!と言うイメージを持った事がありました。



音楽活動が終わり、これからどう生きようか、と考えていた時に、ふと、そのことを思い出しました。



当時「パパとなっちゃん」というドラマがありました。



お父さん役を田村正和、娘役を小泉今日子、父1人、娘1人の親子の物語です。



お父さんはグラフィックデザイナーで、いつも自宅で仕事をしていて、言葉では伝えないけども、常に母親のいない娘、なっちゃんのそばにいて見守っている、そんな心温まるドラマでした。



そのドラマを見ていた時、自宅で仕事ができて、子供たちと長い時を過ごすような人生もいいなぁ、もし普通に仕事をするなら、こんな働き方がいいなぁと、当時ぼんやりと思っていました。



大学卒業後は、音楽活動の傍ら、一般的な就職をして会社員をやっていましたが、バンド活動が終わり、「パパとなっちゃん」を見ていたときの思いが強くなり、仕事はデザインをやって、ゆくゆくはフリーとなり、自宅で仕事をすると言うイメージ像が、徐々に頭の中でカタチ作られていきました。



元々、絵を描くことは好きでしたし、高校時代の美術の先生には「お前、美大に行ったら?」と言われたこともあり、自己評価でしかないのですが、デザイン系、アート系のバックボーンもあるつもりでした。



そこで一念発起。



基礎からデザインを学びたいと言うことで、デザイン系専門学校に入学。



2年間デザインを学んで、晴れてデザイン業界に入ったのです。



関東に行った最後のバンドメンバーは、大学院で博士号を取得し、破竹の勢いで、一流企業で出世を果たし、今では取締役についています。



僕には輝かしい学歴の持ち合わせはありませんが、彼がど真ん中ストレートの出世街道をひた走るのであれば、僕は野武士の如く裏街道から、腕1本だけで登っていき、山の頂点で会おうと決めていました。



勉強では勝てないので、親から、そして天から授かったわずかばかりの才を武器に、世に撃って出ました。



その結果、世に名だたる二科展では、一点だけで勝負した初出展のイラスト作品が準入選、JIA日本イラストレーター協会主催インターナショナル・イラストレーション・コンペティションにおいてイラストが入選を果たし、世の中に通用するレベルにはあるという事を証明できました。



彼とはコロナ禍で4年ほど会ってはいませんが、今はコンサルとして、胸を張って会うことができます。



冒頭にお話しした4人の友人のうち、ドラムス担当だった彼だけは、僕を含めて他の誰も消息がつかめていない状況ですが、その他2人については、誰もが知っている大手一流企業でそれなりの役職について、人生後半戦を謳歌しているようです。



くだらないプライドですが、エリート街道とは縁遠い僕なんかでも、この人並外れたエリートと、同じ夢を描いて走り続けた戦友である元バンドメンバーとして、また唯一無二の親友として、対等に話ができるような人生を過ごせております。




人生において、何度かピンチや挫折はありますが、その時その時で腐らず、前を向いて生きていけば、その延長線上には、胸を張って陽の当たる場所を闊歩できる道が続いていると、このお話しをカタチにしていて、改めて実感しました。